『感染地図』

 今日は1冊紹介しましょう。
 スティーヴン・ジョンソン著(訳:矢野真千子)『感染地図』 (河出書房新社・河出文庫)
   http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309464589/

 先月の終わりに大学の書店で衝撃的な表紙に目がいって手に取りました。ミステリー仕立ての歴史小説のようでもあるが、事実を緻密に辿り、丹念に描いている読み応えのある一冊。

 疫学(えきがく)という言葉を、最近何度か耳にしたことでしょう。つい2ヶ月前までは一般にはほとんど知られることもなかった学問分野ですが、SARS-CoV-2のパンデミーの対策において中心的な役割を演じています。政府の専門家会議やマスメディアに登場する専門家には、この分野のエキスパートが含まれています。

 疫学は英語ではepidemiologyといい、"epi-”は"among or upon"、"demo-"は"demotic"に由来して"people or distic"の意。"-logy"は"logos"から来ていて"discourse or science"を意味します。したがって、"epidemiology"で「人々に降りかかってくる問題についての学問」というような意味でしょうか。医学大辞典(医学書院)には「疾病などの健康事象の,人集団における分布と規定要因を研究する学問。他の医学分野や生物統計学の知見・手法も活用し,病因および予防因子と疾病との因果関係の強さと大きさを人集団において定量的に把握する。検診などの疾病予防対策の策定や効果評価にも応用される。コレラ菌発見以前の19世紀ロンドンにおいて,コレラ流行が汚染水道水によるものであることが究明されたことは,疫学の代表的成果である。」と説明されています。つまり、一人一人の患者ではなく、集団を対象として、疾病の発生源や流行の状態、あるいはその予防などを研究する分野です。説明にもあるように、もともとは感染症を対象として始まり、現在は、公衆衛生や疾病の予防のための基礎データを収集、分析する上で中心的な役割を演じている学問です。また、根拠に基づく医療(Evidence based mediciene)のために必要なデータを提供する分野でもあります。

 「疫学の父」と言われているのが、ジョン・スノー(John Snow、1813年-1858年)。イギリスの麻酔科医で、1854年のロンドン・ソーホー(Soho)地区でのコレラ禍で、緻密な現地調査とデータ解析からその感染源を明らかにました。『感染地図』は、感染者の住居を地図に記したスノーの活動を中心に、当時の貧しい人々の生活の様子や学界や行政の対応ぶりを具に描いています。

 ソーホー地区はバッキンガム宮殿からもそれほど離れているわけではなく、ビッグベンやナショナル・ギャラリー、ロイヤル・オペラ・ハウスからもほど近いエリアです。しかし、この当時は貧しい労働者のアパートや小さな工場が建て込むエリアだったようで、テムズ川上流で汲み上げた上水道の井戸に隣接した汚物だめから屎尿が漏れていたことが、コレラ蔓延の原因でした。ロンドンやパリなど、当時のヨーロッパの大都市では人の排泄物の処理が大変だったようです。ソーホー地区では、アパートの地下室が汚物であふれていたとか。日常生活自体が大変だったのではないかと想像しますが、コレラのような伝染病も散発していたようです。

 1854年のソーホー地区のコレラ禍における感染源とされた井戸(ポンプ)はここです(
Broad Street Pump39 Broadwick St, Soho, London W1F 9QP イギリス)。スノーがつくった「感染地図」を始め、スノーに関する情報はここ(http://www.johnsnowsociety.org)に詳しくまとめられています。現在、感染源とされた井戸に近い場所には"John Snow"の名を冠したパブ(John Snow39 Broadwick St, Soho, London W1F 9QJ イギリス+44 20 7437 1344)があります。

 本書では、新しい学問分野、特に社会と関わりがあるような分野がどのように始まっていくのかがてにとるようによくわかります。そして、旧弊を打ち破ることなくして新たなパラダイムを切り開くことができないということ、しかし、それは決して派手なあるいは華やかな業績としてではなく、地道な努力の積み重ねでこそ成し遂げられるということを実感できます。