Fillippo Pacini

 先日触れたフィリッポ・パチーニ(Filippo Pacini)の業績について少し説明します。

 1812年にイタリア、フィレンツェ近郊のピストイア(Pistoia)の貧しい家庭に生まれました。親の希望もあり、幼い頃から聖職者を目指した厳格な教育を受けたようです。しかし、18歳の時に奨学金を得て、医学を志します。“Scola Medica Pistoia”という名称ですから「ピストイア医学校」でしょうか。当時は有名な学校だったようです。
 1849年にフィレンツェ大学の解剖学の教授になり、以後そのポストで研究と教育に当たりました。1883年、71歳で亡くなっています。生涯独身で、病身の2人の姉妹(姉か妹かは分からない)の世話にあたって苦労したようです。

 第一の業績は、触圧覚受容器であるパチニ小体(Pacini corpuscle)を発見したことです。1831年とされていますので、19歳でしょうか。まだ学生としての実習中に、正中神経や尺骨神経の分枝の終末に卵形の小体を見いだしました。先生に尋ねたところ、脂肪組織の塊と応えたそうですが、当時の教科書にも見当たらず、自分で顕微鏡を購入して調べたとのこと。結局、”tactile ganglia(触覚神経節?)”と名付け、1835年にフィレンツェの学会で発表したようですが、相手にされませんでした。1844年になって、当時すでに高名だったドイツの組織学者ヘンレ(Jakob Henle;1809ー1885)のグループが 、パチーニの名を出してこの小体の存在に言及したことで、ようやく認められました。ヘンレたちの論文は、その構造についてかなり詳細に記載しています。
 パチニ小体は皮膚のみならず、関節や骨、さらには膀胱などにも存在する圧覚受容器です。機械的刺激を受容する感覚受容器としては最初に発見されました。非常に大型であるため実験しやすいのか、多くの知見が得られています。『生理学Ⅰ&Ⅲ』では、主に表在感覚の受容器として後期に取り上げます。

 第二の業績はコレラ菌(Vibrio cholerae)を発見したことです。1854年ですから、ロンドン・ソーホー地区のコレラ禍と同じ年です。イタリア・フィレンツェでもコレラが猛威を振るったそうです。パチーニは、コレラによって亡くなった患者の死後すぐの小腸の粘膜組織を観察して、コンマ状の桿菌を見いだします。さらに、コレラが伝染性であり、その原因がこの菌であること、さらに、患者の小腸粘膜の状態を明らかにし、多くの論文を執筆して主張しましたが、これまた受け入れられませんでした。ロンドンでのジョン・スノーの主張が受け入れられなかったのと同様ですが、当時は「瘴気説」とでもいうのか、そこの「空気が悪い」ということで済まされていました。
 彼の発見の30年後(1884年)に、ドイツのコッホ(Robert Koch;1843ー1910)が報告してやっと世界中が認めるようになりました。この結果、コレラ菌は“Vibrio cholera Koch”として受けいられました。その後パチーニの業績が再評価され、1965年に“Vibrio cholera Pacini 1854”が正式の学名として登録されました。

 生地ピストイアには、彼の名を冠した通りがあります(Via Filippo Pacini)

(”Filippo Pacini: A determina observer., Bentivoglio and Pacini., Brain Research Bulletin, 38(2), 161-165, 1995”を参考にしました。)